巨大企業に富が集まる繁栄が健全と言えない訳
2020年7月26日 8時10分東洋経済オンライン
資本主義の暴走は止められるのか?(写真:Pogonici/iStock)
止まれない資本主義経済がなにをもたらすのか、かつて1970年代の未来予測では、温暖化などにより資源、とりわけ石油資源の枯渇が遥かに重大な脅威と見られていた。この深刻さに比べれば、たかが気温が何度か上昇することなどは些末なこととして、当時は話題にも上っておらず、とにかく「石油が完全に枯渇した地表を、人類がその一滴を求めてさまよう」というのが、1970年代頃に思い描かれていた21世紀の悲観的な予想図だったように思う。
しかしそれがその後どうなったかを見ると、実は石油の消費量は当時予想されていたほどには増えなかった。確かに環境にかかる負担は依然小さいとは言えないが、現実には21世紀に入っても原油などは市場で結構だぶついており、少なくとも当時の予想ほどにはそれは悲惨なものではなかったと言える。
また実際消費量を見ても、それは確かに増加してはいるものの、経済発展に比べると、必ずしも指数関数的に急上昇するカーブではなく、むしろどちらかといえば直線的に緩やかに上昇しているように見える。
そこから推察すると、どうも資本主義の指数関数的な倍々ゲームの拡大などということも、現実にはそんなに懸念することはなく、人類がそれを恐れる必要はなかったと思えてくる。
ところが実はそうではないのであり、それは1つには経済の拡大の形態そのものが、ここ数十年で大きく変わってきたからである。そしてわれわれはここで、1つ新しい概念を導入する必要がある。拙著『現代経済学の直観的方法』でも詳しく解説している「縮退」という概念である。
「縮退」はいいか悪いか
「縮退」とはどのようなものか。
実はその実例は読者も身近なところで見ているはずだ。
例えば一昔前の商店街ではたくさんの小さな商店が共存して賑わっていたのに、それが郊外に大手資本が入ったショッピングモールができることで客がそちらに流れ、シャッター街と化している。
ここで1つ注目すべきことは、こういう場合しばしば必ずしも経済全体が衰退しているわけではないということである。
世界の経済を見ても、グーグルやアマゾンに代表されるごく一握りの超巨大企業だけは栄えており、後者だけで統計をとれば世界経済そのものは間違いなく繁栄しているのである。そのためこれが衰退なのか繁栄なのかは一言で言えないことになり、そこでこういう一筋縄ではいかない状態を「経済が(巨大企業に)縮退している」と表現しようというわけである。
これと似たような話は、自然界の生態系の様子を語るときにも聞かれる。デリケートな生態系を持つ湖に、外から強力な外来種が入り込んでくることで昔からの弱小な固有種が絶滅する。そこでは種の寡占化は進んでいるのだが、外来種が増えたことで魚の個体数は逆に増えている場合があり、そこでもやはり衰退か繁栄かの判断には微妙な部分が残ってしまうのである。
こうしてみると、それらの良しあしの価値判断はあるいは相対的なものでしかなかったのかもしれない。例えば珊瑚礁でオニヒトデが大繁殖しているのを見れば、誰もがそれを悪いと思うだろうが、それは単にオニヒトデが醜い嫌われ者だからで、もっと美しくて食用にもなる生き物が大繁殖していれば、それはいいことだと解釈されたかもしれない、ということである。
しかし生態系の分野では、「悪い生態系」とは何かに関しては、一応の基準がちゃんと存在していて、両者は必ずしも相対的ではない。それによれば、一般に悪い生態系とは「少数の種だけが異常に繁殖してほかの多数の弱小種を駆逐し、種の寡占化が進んでいる状態」とされており、そのため先ほどの一連の話も、その定義の上からは一応は「悪い」と判定されることになる。
ただこの定義自体が、どちらかといえば一種の常識的なセンスによって緩やかに導かれた結論なので、徹底して論理的な根拠を問うとなると、その根底にはやや曖昧な部分が残ってしまう。
縮退のメカニズム
ところがここで「縮退」という概念を使うと、その根拠が物理や数学のレベルで与えられ、経済や生態系など分野をまたいでさまざまな分野にも統合的に適用できるようになるのである。
そしてここではそれらの食物連鎖や相互依存関係が矢印で示されており、下の図Aのようにそれらが全体を回ることで、多数の生物や企業同士の相互依存関係が一種の大きな生態系を作っているわけである。
ところが多くの場合、時間を経るにつれて図Bのようにその毛細血管のような矢印の「流域」がだんだん狭まってきて、資金の流れなどが超巨大企業と巨大機関投資家の2者の間だけで回るようになっていき、その際に矢印も太くまとまって、資金の流量そのものは増大する場合が多い。

(出所)『現代経済学の直観的方法』(講談社)
こういう状況になると、末端には資金がまったく回らないようになって、システムの外に追い出され、末端から壊死していくことになる。つまりたとえ中心部が栄えて全体としては量的に大きくなったとしても、生態系としては劣化している。これが「縮退」である。
これが悪い状態であることは常識でも一応わかるが、もっと論理的にはその良しあしの根本的な理屈はどう考えればよいのだろうか。その際にはこの話の本質が「偶然そういう生態系がうまく成立することが、どれほど稀で難しいことなのか」という点にあるということに注目すればいい。
この場合、バランスのとれた生態系では、それぞれの種が他の種に及ぼす相互作用が絶妙な値にセットされていることが必要である。つまり下の図aのように、弱小種に至るまですべての種同士の間で、互いの相互作用の値が絶妙に正確にセットされていなければならない。それらを全部適切な大きさにセットすることで、はじめてその生態系はバランスするのであり、それは経済世界の場合も同様である。
それに対して寡占化が進行した状態では、図bのように最も強大な2つぐらいの種の間の関係だけをセットすれば、それだけで一応は大きなバランスが作れてしまう。経済の場合なら、巨大企業と巨大機関投資家の間で金が回っておりさえすれば、ほかの部分がどんな数値であれ、それだけで一応経済の大枠が決まってしまうので、経済社会はその状態で安定してしまう。

(出所)『現代経済学の直観的方法』(講談社)
そしてここで「偶然そういう状態が達成されることが、どの程度難しくて希少なのか」を眺めると、図aのほうが難しいことはすぐわかる。つまりaの場合、たくさんの相互作用を互いに矛盾しない適正値にセットしなければならず、その絶妙な組み合わせパターンは1通りか2通りぐらいしか存在しない。
ところがbの場合だと、メインの2つ以外はランダムでよいのだから、それらの潜在的なケースも全部数え上げれば、許される組み合わせの数は何千通りもつくれるということになる。つまりaの状態は希少性が高いが、bの状態は希少性が低いことになる。
ともあれこのような形で問題を表現すれば、これがaの希少性の高い状態からbの低い状態へ移行する、一種の劣化であることがきちんと立証できるのである。
この場合、問題の本質は「劣化した状態では注意深くセットすべき相互作用の個数が減っている」ということで、その際には、もし多数の細い流れの矢印が1本の太い流れの矢印に統合されて消失しても、合計流量が同じなら物事は劣化した状態で一応の安定状態を作ってしまうのである。
一度「劣化」するとなかなか元には戻らない
そして「システムが劣化した状態でも生き続けて元へ戻らない」という件に関しては、その極端な実例がわれわれの身近でも見られている。それは人間の延命医療の末期状態で、体に何本ものチューブをつけて外から延命を図る、いわゆる「スパゲッティ症候群」である。
われわれの人体は、本来の健康な状態では先ほどの図のaのパターンのように、各臓器間の相互作用が絶妙な値にセットされ、各臓器が互いに絶妙なバランスで依存し合う形で体全体の機能を維持している。ところがスパゲッティ症候群では、主要な各臓器に外からチューブをつけて1個ずつ別個に維持するため、各臓器間の微妙な相互作用などは最初から無視されており、それがどんなでたらめな値になっていても、一応この状態を強引に維持することができる。
そのように主要な臓器が全部生きているので一応の延命はできるが、単に各臓器がばらばらに自分の機能を維持しているにすぎず、人間としてのまともな活動は一切不可能となる一方、死ぬこともないので、チューブを外さない限りこのままの状態がずっと続いてしまうのである。
つまりセットすべき相互作用の個数が極端に少ないという点からすれば、これも縮退の一形態であり、そしてこれは、こういう劣化状態から抜けることが難しいことの大きな実例である。
そしてここで現実の社会を眺めると1つ注目すべきことがある。それは縮退が進行して希少性の低い状態に移行する過程で、しばしば金銭的な富が引き出されているということである。
現在の巨大企業が、中小企業を絶滅させてその縄張りを吸収することで、巨額の富を得ていることは誰の目にも明らかだろう。それは言葉を換えれば、経済社会を縮退させる過程でその富が生まれていることになる。
そしてその極端の例が、金融部門の異常な発達であろう。
つまり世界のマネーが金融という狭い領域に集中してきて、その中だけを回るようになっているわけである。これは図で描けば先ほどと全く同じパターンになり、この現象が世界全体のマネーの流れの縮退そのものであることは、あらためて指摘するまでもないだろう。

(出所)『現代経済学の直観的方法』(講談社)
具体的にはこの図の場合、金融市場の外側を回る矢印が、一般の社会生活に根ざした実体経済の中を回るマネーで、本来ならば世界のマネーはその外側の領域全体をくまなく隅々まで広く回るべきものである。しかし現在の世界経済ではその流れ全体がどんどん縮退し、狭い金融市場の内側だけで投機のために回るようになっている。
それが一方通行的に進行するため、金融市場に溜まるマネーの量がどんどん巨大化してしまうのだが、問題なのはその規模で、いまやそれは想像を絶する代物になっているのである。
投機のために動くお金は実体経済よりも莫大
例えば1990年代の経済は、現在から見ればまだしも「健全」に見えていたが、実際にはその時代にすでに1日当たりに投機のために動く資金の量は1兆ドルのレベルに達していた。ところがこれは当時の他の経済指標と比べると実にとんでもない代物であったことがわかる。
比較のため他の数字を記すと、例えば同時期のアメリカの国内総生産は7兆ドル強であり、日本の1年間の輸出額が約4000億ドルである。そして世界全体の年間貿易額が5兆ドル弱(1日当たりでは130億ドル強)にすぎなかったのであり、それは次のことを意味する。
つまり1日に投機のために動く資金が1兆ドルなのに対し、古典的な「貿易」、すなわち製品やサービスの国際間取り引きのために動く資金は、1日で130億ドルにすぎないというのである。
(ちなみに2018年には1日あたり金融市場で動く資金量は6兆ドル、貿易額は1日あたり500億強となった)
アメリカの伝統的な市場万能主義の経済学では、物事というものは放っておけば「神の手」で最適な状態に落ち着くようになる、と考えてきた。そのためいままで見てきたような縮退も、そんなに深刻な重要課題として考える必要はない、としてあまり関心を持たないで来てしまったのだが、それでは本当にこうした社会の縮退も、放っておけば元へ戻るのだろうか。
ところがそれは容易には元へ戻らないと考えられるのである。なぜなら物理の原理に照らすと、先ほどの過程は基本的に不可逆過程なのであり、理屈からすれば、その際に絞り出された富と同額の金銭を外から注ぎ込まねば、元の状態には戻らないことになるからである。
実例を見ても多くの場合、一旦縮退状態に陥ってしまったものは、そこからゆっくり回復するより、むしろ全体が一種の大破局でリセットされてその更地から再出発していることが多い。
例えば現実の森林というものは、その平和的な外観とは裏腹に、太陽の光を奪い合う過酷な生存競争の場である。つまりその競争に勝って大きく育った木は、周囲の木より高い位置にたくさんの葉を茂らせて、太陽の光を独占的に吸収できる一方、下の小さな木はその陰に入ってしまって、十分な陽の光を得られなくなる。そしてある程度時間が経つと、森は勝者となった巨木で覆われて、その下は葉の陰となって昼でも暗いほどとなり、新しい若い木は育つことが難しくなる。
山火事は森林にとって必ずしもマイナスではない
そのため森林は古い巨木だけが繁った状態で固定化され、新陳代謝が停止してしまうこともよく見られる。これはまさに森林の縮退なのだが、ここでしばしば大きな山火事が皮肉にもそこからの脱出を助けることがあるのである。つまり山火事がそうした古い巨木をすべて焼き払ってしまうことで、地表に一時的に陽が戻って若い苗木が育つことができるようになるというわけである。
そのため、定期的な山火事はむしろ森林の活力を維持するためにはプラスの影響がある、という見方もあるほどで、実際に森林の生態系の中には、あたかも周期的に山火事が起こることを見越して、それを前提に成り立っているようなものもあると言われる。
これは森林に限らず、多くの生物で見られることであり、一見すると安定して定常的に見える生態系でも、実際には周期的にそうした破局を繰り返すことで、長期的に見れば安定状態を作っている、という例が非常に多いのである。
要するに縮退現象においては、しばしば神の手のようなスマートな自動回復機構は働かず、むしろ自然は多くの場合、まとめて全部を焼き払って更地に戻すような乱暴な方法に依存することで、世界が縮退した状態で固着してしまうことを防いできたのである。
しかしこれと同じことを現代社会に適用しようとしても、それは回復の手段としては恐らくもはや有効ではない。故意にそんな乱暴な方法をとるのが道義的に問題なのは無論だが、むしろそれが有効でない理由は、現実に起こりうる程度の小破局では、現代社会の縮退を根本からリセットするには恐らく力不足で、中途半端な結末に終わってしまうと予想されるからである。例えば2008年のリーマンショックも、資本主義を根本的にリセットする力はなかった。
そうした理由で、現代の人間社会は当面そうした破局的なリセットを止めることのほうに全力を注いでおり、そのこと自体は間違っていない。しかし結果として社会は、縮退のためのブレーキを利かないようにしたうえで、一方通行的にそれを拡大させる方向に向かってしまっている。
故意には行えず、放置していても回復しない
こういう場合、思い切って山火事のような大破局で荒療治を行えれば、その後は意外に健康体に戻れるものだが、現実には故意にそれを行うことなどできるはずもなく、かといって放置しておいても回復することはない。そしてそれがあまりに長い間続いてしまうと、そこから回復するための力そのものを永久に失ってしまうことさえ、覚悟せねばならないかもしれないのである。
このためわれわれはかえって深刻な問題に直面するようになった。つまり末期医療の「死ぬに死ねない」スパゲッティ症候群の悲惨と同様に、むしろそれが中途半端な状態に陥ったまま、どちらへ行くこともできずその状態が恒久化してしまい、そのうちにそこから抜け出す力そのものを永久に失ってしまうことのほうが、遥かに恐ろしいのではあるまいかということである。
そこで、そのように短期的願望などが極大化した状態で、進むことも退くこともできなくなり、回復手段を失ったまま半永久的にそれが続くようになってしまっている状態を「コラプサー」と呼ぶことにしよう(実は「縮退」も「コラプサー」も元はブラックホールなどに関連した言葉だ)。
つまりこれからわれわれは、そうした「縮退によるコラプサー化」を意識的に人の力で防ぐことを考えねばならず、それを実現するための何らかの社会的な技術を見出さねばならない状況にあるように思われるのである。
では図を全部閲覧できない場合があります。その際は東洋経済オンライン内でお読みください)

(出所)『現代経済学の直観的方法』(講談社)
こういう状況になると、末端には資金がまったく回らないようになって、システムの